18年前、観光気分でここを訪れ、声を失った。
わたしが学んできた、知らされてきたものとはかけ離れた、本当の「戦争」の有様がここには綴られていた。
余りのショックに「記録に残して振り返る」ことすら出来なかった。
だから、私も他者に「伝える」事が出来なかったのだ。余りのショックに言葉を失い、心を失い、無残で残酷で、気の毒な思いだけがずっと心に残り、
「いつか必ず再訪しよう、そして、ここに記録されていることを可能な限り冷静に伝えよう」
と、心に誓ったわけだ。
しかし、沖縄はさすがに遠かった・・・「行きたい行きたい」と思いつつも、なかなか訪れる機会に恵まれなかった。
今回、「リニューアルにより展示物を大幅に変更する」という話を知り、(どのように変わってしまうかはわからないけれども)私が見た姿が残っているうちに・・・と、やってきた。
「戦争」というものの「ほんとうの姿(ほんとうの一面)」を知ってしまった以上、伝える義務があると考えるからだ・・・
鎮魂の石碑
彼女たちが潜み、仕事に従事していた「ガマ」と呼ばれる壕。
施設内に入ると、従事していた女子学生たちの写真が・・・
施設内は撮影禁止だったのだが、リニューアルされて、この展示が無くなってしまうかもしれないので、1枚だけ失敬して遠くから撮影させてもらった。すみません・・・
病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えませんでした。負傷兵の看護のほかに、水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬なども生徒たちの仕事でした。それらの仕事は弾の飛び交う壕の外に出て行かなければならない、とても危険な任務でした。
陸軍病院に動員されると聞いたとき、生徒たちは弾の飛んでこない、赤十字の旗が立てられた病棟で看護活動をするものだと思っていました。しかし現実は、前線同様、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場でした。
ひめゆり学徒隊生徒教員240名中、136名もの方々が亡くなられた・・・
文字にすると、たった一行である。
しかし、その136名の方々が、こうして「顔写真と簡単な略歴」の元にひとりひとり紹介されると、その136通りの姿が、「命の実感」をもって胸に迫ってくる。
そのおひとり、おひとりが、すべての方々が「死にたくなどは無い・・・」と思いながらも命を奪われなくてはいけないかった事実が、重く心にのしかかってくる・・・
語り継がれるべき「本当の戦争の姿」の手記・・・
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手記その1
先番と交代して入ったら、兵器廠(へいきしょう)の奥には死体が放置され、悪臭を放っていたんですよ。
その死体片付けが大変でした。死んで何日も放置された死体は膨れ上がって大きいのです。
それを担架に乗せ艦砲の合間を縫って、艦砲穴に1,2,3の掛け声で投げ込み、全身が隠れるぐらいまで土をかけて埋めていました。
私たちは栄養不良で痩せ細っていますし、2人でふらふら落っことしそうになりながら足を踏ん張り作業を続けました。
雨は降るし、艦砲は来るし、生きた心地もしません。
翌日また埋葬に行ってみますと、埋めた死者の足が飛び出している始末です。連日の雨で土の沈殿が激しく、またそこに砲弾も落ちるからです。
「便器下さい、尿器ください」「水をくれ」とあっちからもこっちからも呼ぶんですよ。患者の手当や尿弁の処理だけでも手不足なのに、「看護が行き届いていない」と怒鳴りつける人もいる有様で、
「包帯を代えてくれ、治療してくれ」
と、言われても、衛生材料は全く足りないのです。どうしょうもありません。非常に困りました。
壕は二段式寝台になっていましたが、
「上の奴が尿を漏らした」
と始終大声で怒鳴るし、死者の埋葬は毎日ですしキリキリ舞の忙しさで大変な勤務だったんですよ。
艦砲の落ちた穴は池のように水か溜まります。それを飲み水に使うのですが、そこで洗濯もするし、虱(しらみ)のわいた髪も洗います。豪内の糞尿処理は悪いうえにサトウキビの甘酸っぱい匂いにハエが群がり、甚だしく不衛生で、傷口には必ず蛆が発生しました。生きた人間に蛆がわくんです。膿でじくじくになった包帯の中でむくむく動いてギチギチと肉を食べる音まで聞こえるのです。ピンセットでつまみ出しても、包帯の中に引っ込んでしまうばかりです。
薬も包帯もないので治療もできず、蛆取りだけが私たちの仕事でした。蛆が膿を吸い尽くすからかえって直りがいいと言っていました。
破傷風患者は口が開きませんから、
「水をくれ、水をくれ」
と、苦し紛れに手真似で祈る格好で訴えるんです。かわいそうでしたが、固く閉ざした歯の隙間からガーゼの水で潤してあげるだけしかできません。
毒素が脳に回った脳症患者は、絶えずわけのわからないことをしゃべり続けていました。時々、私たちの脚をつかまえたりしますので、転びそうになったりします。それにうっかり尿でも傍に置いておこうものなら、それも飲んでしまう有様です。
元気な患者は夜、勝手に外に出て、飼い主のいなくなった馬や山羊を捕まえて来て解体し、食べていましたよ。
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手記その2
「天皇陛下万歳」と言って兵隊さんは死ぬんだと聞いていましたけど、実際にはそうではありませんでした。
死の前に思う事は、みんな「お母さん」ですよ。どの患者も家族のことしか走ませんよ
大阪出身の兵隊は、最後まで奥さんとお子さんの写真を取り出しては、始終涙を流して家族のことばかり話していましたね。
通信隊に動員された一中3年の生徒は重症でしたが、「僕は絶対死なないよ。お母さんと姉さんが家で待っている、僕を家に連れて行って、姉さん、僕を家に連れて行ってくれ」と、私にすがりついて死んでいったんです。
3年と言えば、まだ十五、六才ですよ。もらい泣きしましたね。
また具志川出身の防衛隊の方でしたけどね、傷口で蛆がむくむくするもんだから、
「包帯なんか捨てて蛆虫を取って!」
と言うからひとつひとつ取ってあげていたんですが、とうとうガス壊疽が脳にきて素っ裸では這い出て来て、
「水くれー、水くれー」と始終そこらを走り回るんです。この人もうわ言のように故郷の話ばかり言い続けていましたよ。頭がおかしくなっていたんですね・
「ウィジョーグゥーのウンメー、チャーグヮー、ウサガミソーレー(上門小のお婆さん、お茶をお召し上がりください)」
と繰り返し私に言い続けながら、亡くなったんです。
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手記その3
独歩患者を30名程収容した壕に配置されましたが、独歩患者とは名だけで、2人のほかはみんな身動きもできない重症患者でした。脚を切断した人、手の無い人、内臓をやられて何時間かおきにマッサージをしないと紫色になってしまう人。頭を負傷して脳症になってしまった人などで壕はいっぱいでした。
ここに着いてじきの驚きは忘れることはできません。
「学生さん」と患者が弱々しい声で呼ぶので行きましたら、片足を膝上部で切断され、幾重にも巻かれた宝田はいは痛々しいくらいに一面にどす黒い血で汚れています。
「痛くて堪らない。何かが傷口を噛んでいる。開けてみてくれ」と言うのです。切断患者の包帯は出血するから開けるなと軍医に強く言われていました。しかし、確かにカサカサ音がします。気持ち悪く、ためらっていたら、「痛いよ、痛いよ」と訴え続けます。気休めに形だけ血と膿でべっとりとした包帯をこわごわ解きました。そしたら太った蛆が3.4匹這っているんです。悲鳴が出るのをぐっとこらえました。蛆を払い落とし、
「何もいません、包帯が汚れて痛むのでしょう。今日は包帯交換日ですからそれまで我慢しましょうね」
と、包帯を元に戻しました。心が疼きました。
やっと治療班が来てホッとしましたが、敵の砲撃がやむ短い時間帯に壕を渡り歩いての治療ですから超スピードの包袋交換です。患者を座らせ、私たちは後ろから抱えます。患部の下に洗面器を置き、地と膿でべっとりになった包帯を手早く解くと、ころころと太った蛆が転がり落ちます。傷口に群がる蛆はピンセットで洗面器に掻き落としますが、筋肉の奥深くまで潜り込み、」骨までしゃぶっている蛆は掻き出さねばなりません。患者は顔面蒼白になり脂汗を滲ませ、体をくねらせて唸ります。私たちは満身の力で患者の体を押さえつけます。
戦場と蛆はつきものでした。
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ある日突然、「軍」の命令で動員され、
>弾の飛んでこない、赤十字の旗が立てられた病棟で看護活動をするものだと思っていました。
と、赴いた先が、
>血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えない
場所だった上に、
>前線同様、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場
の中を、
>水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬
に従事してたという事だ。そして、
ある日突然、「軍」の命令で解散を告げられ、「各自安全な場所に退避するように」と戦場の中で無責任にも放り出された・・・
と言うわけだ・・・
もちろん、砲弾、銃弾の飛び交う中で「安全な場所に退避」するすべなど無かったわけなのだが・・・
ここには、救いなど、何一つ無い・・・
彼女らは、どうして突然人生を奪われなければならなかったのか?誰に、どこに、その責任があったのか?
全ては「戦争」という一言の元に片付けられてしまっている。
手記のすべてを読むことが、またしても出来なかった。
途中で、胸がいっぱいになってしまい読み続けることが出来なかった。そのために来たのだけれど、やっぱり、どうしても読み続けることが出来なかった。
(写真はクリックで拡大します)
戦争は善悪の範疇を超えて、あってはならないこと、起こしてはいけないこと・・・ということだ。
どんなことがあっても、繰り返してはいけない、決して繰り返してはいけない。
そして、さらなる衝撃のシーンを再度目の当たりにすべく、ここを後にした・・・
残りの手記を読むために、私自身が(教科書にも乗ってない、学校では学ぶことの出来ない戦争の残酷な一面を)語り継ぐ人の一人になるために、また、沖縄を訪れたいと思うのだ・・・
◆ひめゆり平和祈念館
沖縄県糸満市字字伊原671−1
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沖縄冒険記 まとめ