ネットカフェはアジールなのだろうか・・・・?

Posted at 07/09/06 Comment(0)» Trackback(0)»

■2007年9月6日(木)

ネットカフェはアジールなのだろうか・・・?

ももちさんが、ネットカフェはアジールか?と書かれておられた。

何か違和感があったので少し考えてみた。

私の語彙の貧しさからかもしれないが、どうもしっくり来ない。
私の感覚ではアジールという語彙には、喧騒、そして活気、
という、どこかざわめきを伴った熱気のようなものを感じていた。

実際、行ってみた事は無いのだが、山谷のドヤという語彙には
違和感無く、このざわめきを伴った熱気・・という感覚はしっくり来る。

しかし、少なくとも私が泊まった時のネットカフェは喧騒やざわめきとは
無縁のどこまでも静かで、そして、どこかうそ寒いくらいの「寂寥感」が
伴う場所であったのだ。

確かに、私が訪れた時間が24時を回っていた事はあるだろう。
24時をすぎてざわめき、熱気を伴う喧騒があってはたまらないかも
しれない。しかし、そこに数時間滞在した私は、何ともいえない「寂しさ」
(やはり寂寥・・・という言葉が一番しっくり来るのだ・・)を感じてしまった。

ももちさんも指摘されているとおり、ドヤ街とネットカフェではアジール性
に明らかな違いが存在するのだと思う。

それは、やはり「つながり」の違いであり、「人と人の距離感」なのだろうと
感じる。ネットカフェでも、薄い壁一枚の向こうには人が存在する。
しかし、どの人たちもそれぞれ思い思いに引きこもり、PCを通じてつながる
先はインターネットだ。そのつながりは限りなく細く、頼りない。

きわめて静かな空間で、マウスをクリックする音だけが、そこかしこから
人の存在を知らせてくれる感覚なのだ。

ドヤから連想される「つながり」は人と人との距離が非常に近く感じられる。
ともすると、肉体同士が触れ合うかのような、「密着感」さえある。」

浮き草のように頼りなく浮遊する感覚のネットカフェと、土地にへばりつく
かのように実感を伴うドヤ。

今一度自分の目で見て、自分の体で感じてみようと思う。

私はネットカフェがそのまま「スラム」に直結するとは思っていない。
しかし、可能性は否定できないかもしれない・・・。

ドヤ街とネットカフェ・・・この決定的な違いはやはり「インターネット」の存在
なのだと思う。細く、頼りなくはあるが、ネットで「つながり続ける事」でそこに、
ある水準以上の「知性」が伴う点にあるのではないかと考えている。

この項、さらに続く・・・

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